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東京地方裁判所 昭和23年(ワ)4391号 判決

原告 宇田川婦美

被告 国

訴訟代理人 堀内恒雄 外五名

主文

被告は原告に対し、四十二万二千二百五十八円六十六銭を支払へ。

原告のその余の請求(第一次の請求)を棄却する。

訴訟費用はこれを五分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し、百九万七千八百五十八円六十六銭を支払へ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求める。右請求にして理由なきときは、「被告は原告に対し、七十五万六千六百五十円を支払へ、訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求める旨申立て、

第一次請求の請求の原因として

「原告は昭和二十三年二月五日子宮筋腫の為東京都文京区雑司ケ谷町百二十番地にある被告の経営する東京大学医学部附属病院分院産婦人科に入院し、同院に勤務する訴外今井重信医師の担当で治療を受けることになつた。処が原告は身体の衰弱が甚だしかつたので今井医師の奨めにより体力補強の為に輸血を受けることとなり、同院が常に給血を受けて居る輸血組合の組合員より給血を受け、同年二月七日、八日、九日及び二十七日の四回に亘つて今井医師の手によつて輸血が行はれたのであるが、右二十七日の給血者であつた訴外小畔孝は当時既に梅毒に感染して居り(この事実は同年六月四日同人の血液の血清反応検査において梅毒反応強陽性を呈したことから明らかにされた)、右小畔の血液輸血の為に原告も亦梅毒に罹患するに至つた。

元来梅毒第一期においては感染後約三週間にして初期硬結の症状を呈し、之と同時に又は稍遅れて感染部位の淋巴系に属する淋巴腺腫張の症状が発現するのが通例であるが、この頃には梅毒の病原体は感染部位に限局されて居るのであり、従つて血清反応も陽性を示さず、輸血による梅毒罹患といふことも考へられない。その後病原体は徐々に身体各部に拡がり、血清反応も陽性を示す様になり、同時に輸血による梅毒罹患の可能性が生ずるのである。従つて輸血の為の採血前数日乃至十数日に行はれた給血者の血清反応検査において反応陰性であつても、そのことによつて輸血時において給血者の血液が梅毒を感染せしめる力を有しないものと定めることはできないのである。そこで医師が輸血を為すに際つてはその時以前に行はれた給血者の血清反応検査の結果如何に拘らず自ら給血者について血清反応検査を行ひ、梅毒反応の陰陽を確かめるのは勿論給血者に対する視診、触診、問診等を行ひ、それらの所見を綜合して給血者が梅毒に感染して居ないことを確めた上で患者に輸血しなければならないものである、昭和二十二年十二月末日迄は輸血取締規則が存し、特別の場合を除く外医師は輸血の為に採血するには給血者について健康診断、血液型検査、血清学的検査血液学的検査を行はなければならぬことになつて居た。該規則は同年十二月末日を以て廃止されたのであるが、昭和二十三年頃における花柳病蔓延の事実は社会周知の処であり、昭和二十年十月十六日附を以て当時の連合国軍最高司令部より日本国政府に宛て発せられた花柳病対策についての覚書において花柳病の蔓延を防止するについて厳重な措置を採るべきことが要請されて居る事実からしても右輸血取締規則に定められて居た医師の義務はその廃止後においても加重されることはあつても軽減されるものでないのである。然も右二十七日の輸血は体力補強の為に行はれたものであり、一刻を争ふものではなかつたのであるから、今井医師が右輸血を為すに際つて右の如き注意義務を尽すに十分な時間的余裕があつたものであり、しかも小畔の血液を輸血したことによつて原告が梅毒に罹患するに至つたのであるから、前述の梅毒症状の経過から見て、右二十七日当時において小畔は梅毒感染後相当の時日(少なくとも四乃至六週間)を経過して居り、初期硬結、淋巴腺腫張の症状は発現して居り、右二十七日当時その血清反応検査をすれば必ずやその結果は陽性を呈するであろうことは明らかであるから今井医師が右の如き注意義務を尽して居れば小畔が梅毒に感染して居り、その血液を輸血するにおいては原告が梅毒に罹患するに至ることを知り得るものであつたに拘らず、上叙の注意を怠り、小畔の持参した同年二月十二日附訴外財団法人日本性病予防協会附属血液検査所の発行に係る証明書(血清反応の結果陰性)のみによつて漫然小畔に異常なきものと診断し、小畔について自ら血液検査も視診、触診、問診等もせずに直ちに小畔より採血し、原告に輸血したものであるから、原告の梅毒罹患は今井医師の過失に起因するものと言はなくてはならない。然して今井医師は被告に使用せられて居る同院勤務の医師であるから、被告は同医師が同院の医師として原告を治療するについてその過失により生ぜしめた原告の梅毒罹患なる結果に基き原告の蒙つた損害を賠償すべきものである。

ところで原告の受けた損害としては、

(一)  原告は昭和二十三年三月三日一応治癒したものとして退院したのであるが、右梅毒罹患の為、十三日頃より発熱し頭痛、眩暉等の症状が起り、身体に異常を生じたので同年四月八日再び同病院小石川分院に入院し、治療を受くるの余儀なきに至つた。原告は同分院において治療を受けた結果同年九月三十日一応安心出来る程度に軽快となり、退院したのであるが、原告はその間治療の為に入院料一万四千三百円、各種処置料五千二百二十円、レントゲン撮影八百二十五円、各種薬品代五千四百七十九円、各種人件費一万五千四百円以上合計四万千二百二十四円を支出した。

(二)  又原告は昭和二十一年五月以降自宅において洋裁教室を行ふ外、洋裁、華道、茶道の出張教授を為し、これらより生活の資を得て居たものである。然るに右梅毒罹患による発病の為、これらの収入の途を絶たれ、昭和二十三年九月三十日一応限院したがなほ通院治療を受けなければならぬ状態にあつたのであり、更に右梅毒罹患の為に歩行障碍を生じ、視力も減退して新聞の見出しが辛うじて判読し得るに過ぎない状態になつたのであつて、原告は罹患発病後少くとも三年間は右教授による収益をあげることができなくなつたのである。右罹患以前においては原告の自宅における洋裁教授の受講者は十名乃至十三名であつたから、右三年間を通じて少くとも平均八名の受講者はあつた筈であり、受講者一人当りの原告の収入は一ケ月二百五十円であつたから、右自宅における洋裁教授によつて毎月二千円の収入があつた筈であり、出張洋裁教授は毎週三回出張し、一ケ月二千円の収入があつたものであり、出張華道教授は三ケ所に出張し、毎月合計千五百円の収入があり、出張茶道教授は一ケ月二千円の収入があつたものであるから、右に必要な出張交通費一ケ月七百円、諸雑費一ケ月三百円を控除するも、なほ毎月六千円を超える収益があつたものである。原告は右罹患発病により、三年間に亘つて右収益をあげることができなくなつたのであるから、右の中一ケ月六千円の範囲内で、ホフマン式計算法によつて三年間の民法所定年五分の中間利息を控除して発病の時における右喪失利益の価額を算出すると、十九万六千六百三十四円六十六銭となる。

よつて原告は右梅毒罹患によつて以上合計二十三万七千八百五十八円六十六銭の損害を蒙つたものである。

(三)  更に原告は大正十三年奈良県郡山高等女学校を卒業し大阪女子英語学校に入学し、英文タイプライター科を卒業し、その後茶道、華道等を学び、茶道教授、華道指南の免許を受け、桜台高等女学校東京成蹊高等女学校、川崎市立高等女学校等に奉職し、昭和二年訴外玉井省一と婚姻し円満な家庭生活を営んで来たものである。然るに右の如く人の忌み嫌ふ梅毒に罹患し、永く梅毒の恐怖に悩まされる身となり、為に省一との円満な家庭生活は破壊され、遂に離婚するの已むなきに至つたのであつて多大の精神的苦痛を蒙つた。又原告は昭和二十三年三月十三日頃より発熱、眩暉、耳鳴、頭痛等の症状が起り、四月八日再度入院した後もこれらの苦痛は些かも減ぜず、二十二、三日頃よりは激しい眼痛が起り、眼底に出血を見るに至り、更に淋巴腺も腫張し一時は生命の危険もあつた程であり、同年九月三十日一応軽快となり退院したものの完全に治癒したわけではなく、身体各部に障碍を残したのである。かかる精神的肉体的苦痛に対する慰藉料としては八十六万円が相当である。

よつて原告は被告に対し、以上総計百九万七千八百五十八円六十六銭の支払を求めるものである。」

「被告の抗弁事実中、今井医師の経歴が被告主張の通りであることは認めるが、その余の点はすべて否認する。」

更に若し被告使用の医師に本件輸血に関する処置につき過失なく、原告の梅毒罹患は医師の責に帰し得ないものとして前叙原告の第一次請求が理由がないとされるときは、予備的に左の請求原因を主張するものである。

「原告は第一次請求の請求原因において述べた様に、昭和二十三年三月十三日頃より発熱、眩暉、頭痛等の症状の発現した為め、同年四月八日再び同病院小石川分院内科に入院し、同院勤務の河合、竹内両師等の担当により同院において治療を受けることとなつた。原告は入院当初から担当医師等に対し発熱、眩暉、耳鳴、頭痛等の症状を訴え、担当医師等はその対症療法を講じたが、病状は一向に好転せず、その後眼痛を感ずる様になつたが、四月二十二、三日頃には眼痛は益々激しくなり、次いで、淋巴腺腫張の症状も現はれたが、担当医師等は結核の疑ひありとしてなほ対症療法を続けたけれども、病状は依然として好転せず、その後原告の再三の懇請により同病院眼科の岡村医師の来診を受けた時には、既に眼底に出血を見る迄となつて居り、五月十三、四日頃岡村医師の再度の来診があつてから始めて担当医師等は原告の病状について梅毒の疑を持ち、五月十六日血清反応検査の為採血し、二十五日血清反応検査が行われ、その結果が陽性であつたことから二十九日に至つて始めて原告が梅毒に罹患していたことが明らかにされ、六月一日より駆梅療法が施されたが、以後原告の病状は次第に好転し、同年九月三十日退院したのである。

原告は右の如く同院に入院し治療を受けることになつたのであるから、被告に使用されて同院に勤務する医師等も医師として当然払ふべき注意義務を尽し、速かに病因を診断し、これが治療に努むべき義務がある。原告は入院当初から前述の通りに脳中的苦訴を為していたのであるから、右の様な苦訴のあつた場合一応考へられるマラリヤ、チフス、結核、腎臓炎等に対する対症療法を試み、何等の効果のない時には、臨床医として当然梅毒の疑を持たねばならぬ筈である。前述の原告の症状経過からして右の如き対症療法を試みその効果を確かめるには入院後七乃至十日を以て足るものと認められるから、その後直ちに血清反応検査を行つて居れば、四月二十日から二十三日の間において原告の梅毒罹患の事実は明らかにされて居た筈である。然るに原告の担当医師等がこの点に思ひ至らず、入院後五十余日を経た後に至つて梅毒罹患の事実が明らかにされたといふのは、明らかに担当医師等の義務の懈怠を示すものである。而して四月二十三日頃より直ちに駆梅療法が採られて居たならば原告の治癒も容易であり、治療期間も短縮され、身体機能障碍は軽微であり肉体的、精神的苦痛も少なかつた筈である、四月二十三日頃より駆梅療法が行はれて居たならば原告は(イ)同年五月末日迄には退院出来る程度にまで恢復し得た筈であるから、六月一日以降現実に退院した九月三十日迄の入院、加療を受けるに要した費用は担当医師等がその責務を尽さなかつたことによつて蒙つた損害と言ふべく、(ロ)又原告の視力減退、歩行障碍その他の身体機能障碍も軽微であり発病後一年間を経過した後は再び職業に従事し得た筈であるのに、現実には三年間職業に従事して収益をあげることができなくなかつたものであるから、後の二年間の得べかりし利益の喪失はこれ又担当医師等の義務を尽さざるに起因したものと言ふべきである。(ハ)更に担当医師等がその義務を尽して原告の治療に当つて居たならば、原告の入院中並にその後に受けた肉体的苦痛も軽微であり、爾後の身体機能障碍も少く、省一と離婚する迄には至らなかつたであろうと推察されるのであるが現実には前述の通りに甚大な肉体的精神的苦痛を受けたのである。

然して第一次請求の請求原因において述べた様に原告が四月八日再度入院して以来、九月三十日退院する迄に要した費用は合計四万千二百二十四円であるから、その中(イ)の六月一日より九月三十日迄の分は二万八千五百八十八円(日割計算)となり、三年間の得べかりし利益は、発病当時の価額において十九万六千六百三十四円六十六銭であるから、少くともその中(ロ)の後の二ケ年間において得べかりし利益の価額たる十二万八千六十二円の損害を受けたものである。又前述(ハ)の如き無用の肉体的精神的苦痛に対する慰藉料としては六十万円を相当とする。

よつて原告は被告に対し以上総計七十五万六千六百五十円の支払を求めるものである。」と述べた。〈立証省略〉

被告指定代理人は、原告の第一次請求並に予備的請求について、いづれも請求棄却の判決を求め、

第一次請求の原因について、

「原告主張事実中、原告が昭和二十三年二月五日子宮筋腫の為、被告の経営する東京大学医学部附属病院分院産婦人科に入院し、被告に使用されている同院勤務の今井重信医師の担当で治療を受けたこと、原告が主張の如く四回に亘つて体力補強の為に今井医師の手によつて輸血を受けたこと、二月二十七日の輸血は、小畔孝の給血によつて為されたものであること、同年六月四日血清反応検査の結果小畔が梅毒に感染していたことが明らかになつたこと、原告が梅毒に罹患したこと、今井医師は二月二十七日輸血をするに際つて血液検査をしなかつたこと、輸血取締規則に原告主張の如き規定があつたが、同規則は原告主張の日を以て廃止されたこと、総司令部より原告主張の如き覚書が発せられたこと、原告が梅毒罹患の為同年四月八日再び同病院小石川分院に入院して治療を受けたこと(但し退院は九月六日である。)原告がその主張の如き入院料、処置科、レントゲン撮影費を支出したこと、原告が梅毒罹患により精神的打撃を受けたこと、原告が四月八日再度入院した当初から発熱して居り、頭痛、眩暉、耳鳴等を訴へて居たこと、五月一日より眼痛を訴へ、五月五日より相当激しい頭痛を訴へたこと、原告がその主張の時に郡山高等女学校を卒業し、玉井省一と婚姻したことは認めるがその余の事実は争ふ、原告は退院後も通院して治療を受けて居たが、同年十一月十日血清反応検査の結果も陰性となり完全に治療したのであり、職業に就くも差支へないものであり、又原告の梅毒症状はその家庭生活が破壊される程のものではなかつた。

原告は昭和二十三年一月十六日同病院産婦人科に外来患者として来り、訴外尾崎憲二医長の診察を受け、子宮筋腫並に癒着と診断され、二月五日午後入院したものであるが入院当初から貧血著明であり、血液所見は血色素量五十五パーセント、赤血球数一立方耗中三百二十五万、白血球数一立方耗中九千三百、赤血球沈降速度は三十分値二十、一時間値三十五、血圧は最高百十、最低六十であり、心音は不順で必悸亢進を訴へて居たので所謂筋腫心臓が認められた。二月六日尾崎憲二医長診察の結果手術を行ふことになり、手術は二月九日と予定されたが、原告が貧血の強かつた為と、手術による出血の為に起るかも知れない心臓機能衰弱の危険を防止する目的で輸血を行ふこととなり、二月七日訴外高橋繁より、八日訴外菊地修平より、それぞれ百立方糎を採血して原告に輸血した。九日尾崎医長執刀の下に手術が行はれたが、原告は脈膊稍、小、軟弱、頻数であつたが規則正しく、顔面は蒼白憔悴し、血圧は最高九十最低五十といふ状態であつたので、生理食塩水千立方糎の皮下注射をなし、なお患者疵護の為に訴外久保真吉より百立方糎採血して原告に輸血した。原告は次第に快方に向つたがなほ貧血が強かつたので、二月二十七日体力補強の為に小畔孝より百立方糎を採血して原告に輸血したのである。

梅毒罹患者の血液はその感染直後から梅毒感染力を有するものであるから、医師が輸血を為すに際つては給血者が梅毒に感染していないことを確かめなくてはならないものではあるが我国において昭和二十三年二月当時学会において一般に権威あるものと認められて居た梅毒血清反応検査方法は、ワツセルマン氏反応。村田氏反応、北研法のみであり(短時間に検査を為し得る井出氏法はその後において権威を認められたものである)その検査の為には何れの方法によるも一日以上の時間を要するものであり、然もその各方法による検査の結果を綜合判断しなければ本来正確を期し難いのであるが、時間的余裕のないことを通例とする輸血においては、かかる血液検査を行ふことは事実上行ひ難いことである。従つて医師が前述の如き輸血を為すに際つて、給血者が一定期間内において権威ある検査所の血清反応検査を受けて居ない場合には、自らその給血者について血清反応検査を行はなければならないが、給血者がその輸血前一定期間内において権威ある検査所において受けた検血証明書を持参した場合には改めて血清反応検査を行はず、その証明書を点検し、給血者に対し視診、問診を行ひ、その所見を綜合して輸血の可否を決するを以て足るものである。右二十七日の輸血においては、小畔は東京都において権威あるものと認められて居る東京大学医学部皮膚科泌尿器科教室内所在財団法人日本性病予防協会附属血液検査所(検査主任市川篤二)発行の、同年二月十二日附の証明書を持参したので、堀内医師が同証明書を点検した処、小畔は血液検査において、ワツセルマン氏反応、村田氏反応共、陰性なる旨記載されて居たから、今井医師は更に小畔に対し視診問診を行つたが別に異常が認められなかつたので、輸血するも差支へないものと判断して小畔の血液を原告に輸血したものであり、今井医師が医師として為すべき処を怠つた事実はない。

更に梅毒罹患者の血液はその感染直後から梅毒感染力を有するが、血清反応検査において陽性を呈するに至るのは通例感染後四乃至六週間を経過した後のことに属する。それとても直ちに百パーセントの陽性率を示す訳ではなく、日時の経過と共に次第に陽性率が高まり、梅毒第二期即ち感染後十三乃至十四週間になつて最も高い陽性率を示す様になるのである。小畔が梅毒に感染したのは同年二月十四、五日頃のことであるから、二月二十七日において小畔の血清反応検査を行つてもその結果が陽性を呈するといふことは殆んど考へられないことである。従つて今井医師が右輸血に際つて小畔について血清反応検査を行つて居たとしても、その結果よりして小畔の梅毒感染はこれを知り得なかつた筈であるから、今井医師が右血清反応検査をしなかつたことが医師として義務懈怠に当るものであり、更に原告の梅毒罹患が右輸血に因るものである(このことは医学的には必ずしも断定できないのである)としてもなほ原告の梅毒罹患なる結果について今井医師に過失ありと言ふことは出来ない。

次に視診、問診等についてであるが、之等の方法は血液検査又は血液検査証明書の点検に対する従属的な検査方法に過ぎず、それ自体独立して的確に梅毒感染の有無を診断し得るものではない。前述の如く小畔は輸血前二週間の日附の権威ある血液検査証明書を持参したのであるから、今井医師がその点検において誤りを犯さなかつた以上、所謂外見的視診を為したに止まり、全身に亘る慎重な健康診断をしなかつたことは事実であり又その他問診の点について理想的な診察といふ点から見れば若干の欠くる処があつたとしても、これを以て注意義務の懈怠と言ふことは出来ない。更に梅毒に感染した者について通例その梅毒症状の発現を見るのは感染後約三週間を経た頃に初期硬結の症状を呈するのが始めであるが、小畔が梅毒に感染したのは前述の通り二月十四、五日頃のことに属するから、小畔は右二十七日当時においては未だ梅毒症状の発現を見て居なかつたものと言ふ外なく、従つて今井医師が慎重な健康診断を行つて居てもなほ小畔が梅毒に感染して居ることは発見出来なかつたものである。然る以上今井医師が慎重な健康診断をしなかつたことが義務違背に当るとしても、なほ原告の梅毒罹患なる結果について今井医師に過失ありと言ふことはできないのである。」と述べ、

抗弁として

「仮に今井医師の過失により原告が損害を蒙つたものであるとするも、今井医師は昭和十五年四月東京大学附属医学専問部に入学、昭和十八年九月卒業し、同時に海軍軍医見習尉官として入隊、昭和二十年十二月復員し、翌年一月東京大学医学部附属病院分院介補として産婦人科に勤務し、同年十一月医員嘱託となつたものであるが、その学業成績も良好であり、経験年数から見ても同人を医員嘱託に選任したことは相当であつて、被告は同人を医員嘱託に選任するについては相当の注意を払つたものであり、又診療は担当医師の経験上の判断が重要であり相当の独立性を有して居るのであるから、個々の診療の内容に立入ることは出来ないが、今井医師に対しては、産婦人科医長尾崎憲二その他の経験ある医師等が常に相当の監督を為し来つたものであるから、被告において損害を賠償するの責はない。」と述べ、

予備的請求の請求の原因について、

「原告主張事実中、原告がその主張の日に小石川分院内科に入院し、被告に使用されて居る同院勤務の河合、竹内両医師その他の者の担当により治療を受けることになつたこと、同医師等が同年五月十六日血清反応検査の為原告より採血し、二十五日その血清反応検査が行はれ、その結果により二十九日に至り一応原告の梅毒罹患の事実が明らかとなり、六月一日以降駆梅療法が行はれ、その後原告の病状が好転したことから原告が梅毒に罹患して居たことが確定したこと、原告の病状が軽快となり退院したこと(但退院の日は九月六日である)は認めるが、河合、竹内医師等の注意義務懈怠に起因して原告の梅毒罹患の判明が遅れ、為に原告が無用な多大の損害、苦痛を蒙つたものであるとの事実並にその金額は争ふ。

医師が疾患の診断、治療に当る場合には先づ患者を診察して得られた客観的な症状を基礎とし、之を分析し、必要ある場合には各種の補助的検査を為し、それらより得られた所見を綜合して診断を確定し、原因に対する療法を講ずるのが原則である。従つて諸症状が発現して居ない時期やその客観的把握が困難な場合には直ちに診断を確定し根源的な治療を施すことが出来ないから、対症療法を講じつつ経過を観察し、その間に患者の症状から蓋然性の最も大と思はれる疾患から順次予想される疾患に対する各種の検査を施し、診断に到達するのである。もとより入院即日直ちに各種の検査を施行すると言ふ診断方法も考へられるのであるが、無用に帰する労力、費用を要する点から見ても、前述の如き方法が一つの正しい診断法たるを失はない。而して入院後診断に至る迄の経過は次の通りであつた。

昭和二十三年四月八日原告が入院した当初訴へた処は、同年二月五日子宮筋腫で同病院入院産婦人科に入院、二月九日手術を受け、三月三日治癒退院したが、その間四回に亘り輸血を受けた、ところが三月十三日頃突然頭痛が現はれ、次いで高熱を発し右耳痛と歯痛を感ずるに至り以来発熱が続くと言ふにあつた。検温の結果は体温三十七度四分であり病因が判明しないので、直ちに赤血球、白血球及び赤血素量の検査を為した、四月十日赤血球沈降速度を検した処、一時間値九十八、二時間値百十六であり、右の症状からして腸チフス、パラチフスの疑を生じ十四日ウイダール反応検査を為したが、同日の昼の体温三十九度七分であり、咽頭部に疼痛を訴へた。十六日悪寒を訴へ、三十九度八分の発熱を見、原告についてワイル、フエリツクス反応を検したが、右両検査を以てしても確定的に断定ができなかつた。十七日腫が触知出来る様になつたが、塩酸キニーネを投与した処、二十日以降は体温概ね三十七度台に下降し、症状は稍々軽快に向ふ様子が見えた。二十二日再度白血球数を測定した処四千八百なる結果が出、二十四日ウイダール反応を検した処チフス菌二百倍、パラチフスA菌五十倍、同B菌五十倍なる結果が得られ、ワイルフエリツクス反応を検した処百倍という結果が得られたので、チフス性疾患の強い疑が生じたのであるが、この頃は体温は引続き三十七度五分以下で、原告の訴へる苦痛も睡眠中発汗位のものであり、一般状態も決して不良ではなかつた。然る処五月一日に至り原告は眼痛胸鎖乳頭筋痛を訴へ、食欲が減退したので、即日同院眼科の岡村医師が診察し、虹彩毛様体炎及硝子体混濁と診断し、四日再度診察し、硝子体に出血を認め、反復性壮年性網膜硝子体出血と診断し、結核に関係あるものと判断した。五日胸部に理学的異状なく圧痛は殆んどなかつたが、眼痛は激しくなり、頭痛、発汗は続き、両側の頸部淋巴腺が拇指頭大に腫張して居ることが認められたので一応頸部淋巴腺結核と診断された。六日胸部レントゲン撮影を行つたが、左側頸部淋巴腺に圧痛が現れ、鼡蹊部にも両側において淋巴腺が僅かに触知出来る程に腫張し、七日腺団塊を形成せる淋巴腺腫張が認められた。十日虹波二錠を服用させた処、一応腫張が減退したので、十四日更に四錠を服用させたにも拘らず十五日に発熱を見た。そこで十六日梅毒ではあるまいかとの疑からワツセルマン氏反応を検する為血液、脳背髄液を採取し検査に廻すと共に、アミノピリンを投与した処体温は微熱程度に下降したが、十八日原告は夜間の眼痛を訴へる様になつた。二十九日ワツセルマン氏反応強陽性なる旨の検査成績書が到達したので、三十一日再び採血して検査に過すと共に、一応六月一日以降駆梅療法を行つた処、原告の諸症状は著しく軽快に向つたので、右諸症状が梅毒に基因せるものであることが推定されたのである。その後十五日に至り、前頭骨、後頭骨に小指頭大の硬い腫張を生じ圧痛が認められたので、検査した処梅毒性骨膜炎であることが判明し、ここに原告が梅毒に罹患して居たことが確定的に診断されたのである。そこで引続いて駆梅療法を行つた結果、諸症状は消失し、軽快に向ひ、九月六日退院し、その後も通院加療を受けて居たが十一月十日ワツセルマン氏反応も陰性となり梅毒疾患は治癒したのである。

右の如く原告は四月八日入院当初から発熱、頭痛、耳鳴、眩暉等を訴へて居たが、頭痛は高熱に伴つて生ずる症状である(特に夜間の頭痛を訴へる様になつたのは五月十八日からである)し、内臓下重、貧血を来して居た原告にとつては眩暉も耳鳴も当然考へられる病状であり、梅毒によつて眩暉の起るのは脳背髄梅毒の場合であるが、その徴侯は見られず、加へて原告が同年二月産婦人科に入院した頃はワツセルマン氏反応は陰性であり、原告は既往症として性病を強く否定して居たし、接種梅毒は極めて稀な事例であるから、入院当初において梅毒を疑はしめるものはなかつたのである。原告の発熱並に頭痛の症状から一応チフス性疾患の疑が濃かつたので前述の通り各種の検査を行つたのであるが、その結果は確定的にチフス疾患と断定し得なかつたが極めて疑はしいものであつたから、なほ検査を反復する必要があるのであり、四月二十四日頃には濃厚なチフス疾患の疑があり、この頃までに梅毒の疑を持たなかつたのは已むを得ない処であつた。原告が眼痛を訴へたのは五月一日以降であり、その激しいことを訴へたのは五月五日からである。普通の梅毒においては眼痛症状はなく、接種梅毒の第二期症状として時に眼痛が現はれることがあるが、接種梅毒は世上極めて稀な例である。原因不明で眼痛の現はれるものには緑内障結核性虹彩炎その他多くのものがあり、梅毒性虹彩炎はその中の一つにすぎない。従つて右眼痛の故を以て直ちに梅毒が診断される訳のものではない。五日以降淋巴腺が腫張したが、頸部淋巴腺に圧痛があり、集塊が形成されて居たので、無痛無癒着で集塊を形成し難いのが特色とされて居る梅毒性淋巴腺腫張に対比して結核の疑を持つのは当然であり、殊に十日虹波二錠を服用せしめた処一応腫張が減退したのであつて見れば尚更のことである。十六日梅毒の疑をもつてから以後の経過は血清反応等の検査は大学医学部血清学教室のみで行つて居た関係で採血から検査迄に時日を要したものであり、以後の診断治療には何等の手落もない。

以上の通りであつて原告の担当医師等は医師として払ふべき注意義務を尽して原告の治療に当つて居たものであり、たまたま通例ならざる事態が重なつた為に梅毒罹患の発見が遅くなるのであるにすぎない。

仮に本件において梅毒発見が多少遅きに失した点があるとしても、駆梅療法実施の多少の遅速による治癒の難易、障碍の軽重の差はさしたるものがないのであるから、発見が多少遅れたことにより特に原告が蒙つた損害なるものは存しないものと言ふべきである。」と述べた。〈立証省略〉

理由

第一次請求について

原告が昭和二十三年二月五日子宮筋腫の為東京大学医学部附属病院分院産婦人科に入院し、訴外今井重信医師の担当により治療を受けて居たが、二月七日、八日、九日及二十七日の四回に亘つて今井医師の手により輸血を受けたこと、右二十七日の輸血は、体力補強の為に訴外小畔孝より給血を受けて輸血されたものであること、小畔が当時既に梅毒に感染して居たものであること、及び原告が梅毒に罹患したことはいづれも当事者間に争がない。原告が右二月五日入院の頃にはワツセルマン氏反応が陰性であつたことは被告も認めるところであり、証人玉井省一の証言並に原告本人訊問の結果を綜合すれば、原告も、その夫であつた省一も梅毒に感染する様な機会は別になかつたことが認められ、鑑定人北川昊、中川清、横山[石吉]の鑑定の結果によると、梅毒感染者の血液を輸血した場合にはその輸血を受けた者が梅毒に罹患する場合のあることが認められるので、原告の梅毒罹患は小畔孝の血液を輸血したるに因るものと見るのが相当である。(この点につき被告は原告の梅毒罹患が輸血に因ることは医学的に必ずしも断定できないと主張しているが右主張は裁判の対象となる事実の証明は科学の対象としての事実の証明と本質的に差異のあるものであることを考へない科学者の陥り易い誤解である。裁判上における証明は科学的証明とは異り、科学上の可能性がある限り、他の事情と相俟つて因果関係を認めて支障はなく、その程度の立証でよい。科学(医学)上の証明は論理的必然的証明でなければならず、反証を挙げ得る限り未だ立証があつたとは云へまいけれど、裁判上は歴史的事実の証明として可能性の程度で満足する外なく従つて反証が予想される程度のものでも立証があつたと云ひ得るのである。)

そこで次に今井医師の過失の有無について検討する。今井医師に過失ありと言ひ得る為には今井医師が医師として払ふべき注意義務を尽して居たならば小畔の梅毒に感染して居たことを知り得た場合でなければならない。そこで小畔の梅毒感染の時期について考へるに、成立に争のない甲第七号証(乙第十四号証と同一)、乙第十三号証及び証人小畔の証言を綜合すれば、小畔孝に先天性梅毒はなく、小畔に梅毒感染の機会があつたのは昭和十九年暮頃と、昭和二十三年二月十四、五日頃の二回のみであるが、昭和十九年より昭和二十三年二月十四、五日頃迄には小畔としては淋巴腺腫張その他の自覚症状がなく、昭和二十三年九月か十月頃から梅毒の自覚症状があつたことが認められ、同証人の証言並に証人菊地修平の証言及びこれらによつて真正に成立したものと認められる乙第一号証を綜合すれば、小畔は、昭和二十三年一月末か二月初頃採血して為された血清反応検査の結果は陰性であつたことが認められるので、以上の事実を綜合すると小畔は昭和十九年の暮頃の機会においては梅毒に感染しなかつたものと言ふ外なく。従つて小畔が梅毒に感染したのは昭和二十三年二月十四、五日頃の機会においてであると認められるのである。そこで二月十四、五日頃梅毒に感染した小畔について二月二十七日当時において医師として通常払ふべき注意義務を尽したならばその感染の事実を知り得たものであるかどうかが問題になる。

(一)  血液検査について。鑑定人北川昊、中川清、横山[石吉]の鑑定の結果を綜合すると、梅毒に感染した場合通例感染後約四週間は血清反応を検するも陰性であり、感染後大体六、七週間にして陽性を呈する様になるが、それも時日を経過すると共に次第に陽性を呈する率は増大し、梅毒第二期において最も高い陽性率を示すのであるが、その陰性期間中においてもその血液を輸血した場合には血清反応検査の陰陽に拘らず輸血を受けた者が梅毒に罹患する場合のあることが認められる。尤も鑑定人土肥淳一郎の鑑定の結果(一部)中には梅毒陰性期間内において血清反応陰性なる梅毒感染者の血液を輸血した場合に梅毒罹患は起らない旨の鑑定があるが、その理由とする処は、梅毒血清反応についての理論的究明の立場において、検査の結果陽性を呈することと、血液中に梅毒病原体の存することとの間に因果関係ありとする立場を採り、従つて病原体が全身に拡がる時期において血清反応が陽性となり、梅毒罹患も起り得るものとされる様である。その学理上立場は別として、既に、梅毒陰性期間中の梅毒感染者の血液(従つて一応血清反応の結果も陰性と考へられる)を輸血することによつて梅毒罹患なる結果が生じ、又血清反応陰性なる梅毒感染者の血液を輸血することによつて梅毒罹患なる結果が生じた事例の存する以上(その様な事例の報告あることは、右鑑定の結果中にもあげられて居る)前記北川、中川、横山各鑑定人の鑑定の結果に照して右鑑定の結果はこれを採ることが出来ないのである。ところで前段認定の事実からすれば前述の二月二十七日血清反応検査の結果が陽性を呈する可能性は極めて僅かであつたものと言はなくてはならないから、仮令二十七日に血清反応検査を行つて居てもその結果は陰性を呈したであろうと見るのが相当である。然る以上今井医師が右二十七日に小畔について血清反応検査を行つて居てもなほその点からしては小畔の梅毒に感染して居る事実は知り得なかつた筈であるから今井医師が血清反応検査を行はなかつた(この事実は当事者間に争がない)ことが医師として義務違背に当るか否かに関係なく、この点において今井医師に過失ありと言ふことは出来ない。

(二)  視診、触診、聴診について。鑑定人中川清、北川昊、横山[石吉]の鑑定の結果を綜合すれば、梅毒感染者について、初期硬結、淋巴腺腫張等の梅毒症状が発現するのは通例感染後大体三週間を経過した後のことに属するが、稀に特殊例として早く諸症状の発現を見る場合もあることが認められる。その特殊例なるものは、(一)において述べたと同様可能性の僅かなものであると考へられるし、前示の如く、小畔が右の如き諸症状を自覚する様になつたのが、昭和二十三年九、十月頃からであるから右二十七日当時においては、小畔には未だ右の様な外顕的な症状は発現して居なかつたものと見るのが相当である。然る以上今井医師が右二十七日に小畔について慎重な健康診断を行つたとしても、そのことから小畔が梅毒に感染してゐることを知ることはできなかつた筈である。従つて今井医師が右二十七日に小畔について視診、触診、聴診を行はなかつたとしても、その点において今井医師に過失があるとすることはできない。

けれども梅毒感染者の血液を非感染者に輸血するにおいては、受血者が梅毒に罹患する場合があるものであることは前示の通りであり、前記鑑定人北川昊、中川清、横山[石吉]の鑑定の結果よりすると、右事実は医師にとつては一般に広く了知されて居たものと推察されるので、医師が輸血を行ふ場合には、起り得べき梅毒罹患なる結果の発生を防止する為に給血者が梅毒に感染して居るか否かを確かめなくてはならない義務のあることは当然である。ところが梅毒感染者についてその血清反応検査の結果が陽性を示す様になるのは、通例感染後少くとも四週間を経過した後のことに属し、初期硬結、淋巴腺腫張の様な外顕的症状が発現するのも感染後約三週間を経た後のことに属することは前示の通りであるから、その所謂陰性期間内においては血清反応検査によるも又血清反応検査証明書の点検によるも更には視診、触診、聴診によるも梅毒感染の事実を診断することは不可能であり、しかも右の如く確定的に診断を下すに足る利用可能な科学的方法の存しないにも拘らず、右陰性期間中の梅毒感染者の血液を輸血することによつて梅毒罹患なる結果の生じ得るものであることは前述の通りである。しかしながら先天性梅毒その他の例外を除けば梅毒感染の危険は、通例その者が意識的に経験する事実に因るものであるから、梅毒感染の危険の有無はその者自身が最もよく了知して居るのが通例であると言はなくてはならない。従つて前述の科学的方法が梅毒感染の有無と確定的に診断することが出来ず然も梅毒罹患の危険性のあるものである以上、医師としては給血者について梅毒感染の危険の有無を知るに足る事項を発問しその危険の有無を確かめ、事情の許す限り危険のない給血者より採血すべきものでありその危険のある限り起り得べき梅毒罹患の結果を避ける為め、その給血者よりの輸血を行ふべきではないと言ふべきである。尤も梅毒感染なる事実は社会的に嫌悪される事柄であり、人の口にしたがらないことであるから、発問に対し真実の告白が為されるかどうかは保し難く、その結果は個人差が大きいものであることが予想されるので、科学的に正確さを保障されて居ないことは容易に窺へる処であり、従つてその正確性の点から言へば血清反応検査、視診、触診、聴診に対し従属的であると言へるにしても、一応科学的正確さが保障されて居る前述の方法が梅毒感染の有無を確定し得ない場合である限り問診を省略してよいと言ふことにはならない。然も右二十七日の輸血は原告の体力補強の為めのものであり、一刻を争ふ緊急を要するものでないことは当事者間に争がないのであるから、問診により、梅毒感染危険の有無を知るに足る事項について確かめる十分の余裕があつた筈であり、問診をしなかつたとしても義務懈怠に当らないとする被告の主張は採ることが出来ない。然るに成立に争のない甲第六号証、乙第十二、第十三号証及び証人小畔孝の証言を綜合すれば今井医師は右二十七日の輸血に際つて、小畔に対し「身体は丈夫か」と言ふ質問を発しただけで、小畔について梅毒感染の危険の有無を確めるに足る何等の発問もして居ない事実が認められる。証人今井重信の証言の中右認定に反する部分は信用できないし、その他に右認定を左右するに足る証拠はない。よつてこの点おいて今井医師が医師としての義務を懈怠したものと言ふことが出来る。

そこで次に今井医師が右二十七日において小畔に対し問診をして居たならば小畔について梅毒感染の危険のあつたことを知り得た筈のものであるかどうかの点について検討する。この点について鑑定人の鑑定の結果は区々である。元来問診と言ふものは一般的な科学性をその根拠に持つものでなく、その結果は問診を受けた人の個人差によつて異るであろうことが予想される(教養の程度、表現の巧拙、正直なりや否等により差異があることは当然である。)けれども医師が直接、診察を受ける者の身体自体より知覚し得る以外の症状その他判断の資料となるべきことは問診により知るの外なく、又一般的に知り得る診察の一方法としてたとへ従属的にもせよ、医師によつて問診が採用せられてゐるのであるから、具体的場合に、特段の事情からして、問診によつて当該事情を知り得なかつたことが明白な場合を除き、問診によつて、医師が知ることを期待する事項は、知り得べかりしものと解するのが相当である。ところで本件において、成立に争のない乙第十一乃至第十三号証及び証人小畔孝の証言によると、小畔は昭和二十三年二月十四、五日頃国鉄上野駅附近において売笑婦に接したものであるが、同所附近の売笑婦に接するにおいては梅毒に感染する危険の大なることを知つて居たこと、その際小畔は別に感染を予防するの措置を採らなかつたこと、小畔は梅毒に感染して居る者の血液を輸血するにおいては受血者が罹患するの虞があることは一応知つて居たこと、小畔は右二十七日の輸血の際別に右の様な梅毒感染の危険のあつたことを申し述べなかつたが、それは今井医師が右の点について何等の発問もしなかつたからであること、及び右二十七日当時小畔は別に生活に困つては居なかつたことが認められ、右認定を覆へすに足る証拠はない。右認定事実を綜合すれば、右二十七日当時小畔は十四、五日頃に濃厚な梅毒感染の危険を経てから僅かに十二日後のことに属し、事の重大性も薄々は知つて居たものであり、別にその輸血によつて生活の資を得なければならないものでもないから、今井医師が相当の問診を為して居れば小畔の血液に梅毒による汚染の危険あることを知り得べかりしことが推測され、問診によつても右の危険性の存在を知り得なかつたことが明白であるとは云ひ得ないものであることが認められる。

然る以上今井医師が更に問診等を行ふことによつて、少くとも小畔に梅毒感染の危険のあつたことはこれを発見するに困難であつたとは思はれないから、今井医師が相当の問診を為して居たならば、小畔の血液を原告に輸血するにおいては原告の梅毒に罹患することのあり得べきことを認識し得た筈であると言はなくてはならない。して見れば今井医師は小畔について問診を為すこともなく、梅毒罹患の危険なしとして小畔の血液を輸血し、為に原告が梅毒に罹患したものであるから、今井医師は、原告の梅毒罹患について過失あるものと言ふべきである。然して今井医師が被告に使用されて、被告の経営する同病院に勤務する医師であることは当事者間に争がないのであるから、原告の梅毒罹患なる結果は今井医師が被告の業務を執行するについてその過失によつて生ぜしめたものであることは明らかである。

そこで被告の抗弁について検討する。証人今井重信の証言(一部)によると、今井医師が同病院において患者に対する診療を為すに際つては、医長の指示に基いて患者に対する処置をして居たものである事実が認められ、又医師の診療については担当医師の判断が相当の重要性を持つ結果個々の診療内容が相当の独立性を有するものであることも推察出来ない訳ではないが、診察治療の実施面における一般的監督が為し得ない筈なく、又かかる監督が今井医師に対して為されて居たものと認めるに足る証拠はなく、却つて証人今井重信の証言中に、一般的に輸血に際して如何なる問診が行はれて居るかは知らない旨の供述があることからすれば、かかる点についての監督は別に行はれて居なかつたものと推測されるのであつて、この点の被告の抗弁は採用出来ない。従つて被告は原告が右梅毒罹患に因つて蒙つた損害を賠償すべき責あるものと言はなくてはならないから、次に損害額の点について検討する。

原告は右の如く梅毒に罹患し、為に発病し昭和二十三年四月八日再び同病院に入院し治療を受けたこと、その為に原告が入院料一万四千三百円、処置料五千二百二十円、レントゲン撮影費八百二十五円を支出したことは当事者間に争がなく、又成立に争のない甲第四号証の一乃至四によると、原告は右入院後六月二千九十一円五十銭、七月千五十四円四十銭、八月千八百八円、九月三百二十五円をそれぞれ右治療の為の医薬品代として支出したことが認められ、又証人大野代子、玉井省一の各証言を綜合すれば、右入院中原告には常に何人かの附添人が附けられて居た事実が認められるのであるが、その為に原告が幾何の支出を為したかについてはこれを認めるに足る証拠はなくその他原告主張の人件費なるものの支出があつたことを認めるに足る証拠はない。よつて(一)の原告の請求の中、右二万五千六百二十四円については正当と認められるが、その余の部分は失当と言ふべきである。

次に証人玉井省一の証言並に原告本人訊問の結果を綜合すれば、原告は入院以前は自宅において洋裁教授を行つて居た外、洋裁、華道、茶道の出張教授をして少くとも一ケ月七千円以上の純益をあげていたものであることが認められる。証人大野代子、玉井省一の各証言並に原告本人訊問の結果を綜合すれば原告は右梅毒罹患の為昭和二十三年三月十三日頃から発熱、関節痛その他の症状が発現し、同病院において診療を受けたが病因の判明せぬままに発熱、頭痛等の症状が続き、四月八日入院し、九月六日一応軽快となり退院したが、なおその後も治療を受ける為に通院して居たこと、昭和二十六年七月十八日当時において原告はなほ時折頭痛を感じ、右眼は一間位の距離において物を弁別できず、左眼は五、六間の距離において電車の方向板を見分けることができず、関節痛に襲はれることもある為に、仕事を長く続けて行ふことができないものであることを認めることができ、右認定を覆へすに足る証拠はない。従つて原告は昭和二十三年三月十三日頃発病して以来、前示の如き収益をあげることはできなかつたものと見ることができる。従つて原告は右梅毒に罹患し発病したことによつて、三年間に亘り、一ケ月七千円以上の得べかりし利益をあげることができなくなつたものと言ふべきであるから、右罹患発病により一ケ月六千円の割合による三年間の得べかりし利益を喪失したとする原告の主張は理由あるものである。そこで一ケ月六千円の範囲で右喪失利息についてホフマン式計算方法により民法所定の年五分の中間利益を控除して右発病当時における現価を算出すると、十九万六千七百三十四円六十六銭となる。よつて(二)の原告の請求は正当である。

更に原告が大正十三年奈良県郡山高等女子学校を卒業し、昭和二年玉井省一と婚姻したものであることは当事者間に争がなく、証人玉井省一の証言並に原告本人訊問の結果を綜合すれば原告は、同四年頃洋裁、華道、茶道の免許を得、同十七年薙刀の免許を得て以来桜台高等女学校、成蹊高等女学校、川崎市立高等女学校に教諭として奉職したこともあり、終戦後は洋裁、華道、茶道教授を為して来たものであり社会的に相当な地位にあつたものであるが、右梅毒罹患の為に省一と離婚するの已むなきに至つたことが認められ、右認定を覆へすに足る証拠はない。右事実からすればその原因の如何を問はず原告が梅毒に罹患したこと自体ですでに原告にとつて精神的な痛手であると考へられる上、省一と離婚することになつたものであればその苦痛は甚大なものであつたと推察できる。更に又証人玉井省一の証言並に原告本人訊問の結果を綜合すれば、原告は右梅毒罹患の為に昭和二十三年三月十三日頃から発熱、関節痛その他の苦痛が現われ、四月八日再度入院して以来も症状は軽減せず、発熱、眩暉、頭痛等の症状が続き、相当に激しい眼痛にも悩まされ、視力も極度に減退したが、六月一日駆梅療法がとられ始めてから次第にこれらの症状も軽快となり、一応退院することができたが、昭和二十六年七月十八日当時においても、視力その他の点において身体諸機能が充分に回復して居ない事が認められるので、原告は右梅毒罹患により肉体的苦痛を受け、身体的障碍を受け苦痛を受けたものと認められる。以上の苦痛に対する慰藉料としては二十万円が相当であると認められるから、(三)の原告の請求は右の範囲においては相当と言ふべきであるが、これを超える部分は理由のないものと言はなくてはならない。

よつて原告の請求は(一)乃至(三)のうち合計四十二万二千二百五十八円六十六銭の範囲では正当として認容するがその余の部分は理由なきもので棄却を免れないものである。

予備的請求について

原告の第一次請求は一部失当であつて認容できないものであることは前述の通りであるが、それは原因については理由があるが数額の点について肯定し得ないのである。原告が予備的請求として申立てて居る処は、その原因こそ異れ、損害の点についてはすべて第一次請求において損害として主張して居る処と同一の事実関係にありその一部などであるから、別に予備的請求について判断しない。

よつて訴訟費用の負担について民事訴訟法第九十二条本文により五分の一を原告の負担とし、その余を被告の負担とすることとし、主文の通り判決する。

(裁判官 毛利野富治郎 桑原正憲 山田尚)

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